面倒くさいけど気になってしまうこと


スピッツのマサムネさんがラジオで、「"めんどくさいおじさん"だから、日本語が元々の意味と違う使われ方をしていると気になってしまう」という話をしていた。そのとき例に挙げていたのは「嗚咽」「確信犯」など。私も「嗚咽」という言葉についてはときどき引っかかることがあったので、激しく共感した。

マサムネさんが"めんどくさいおじさん"なら、私は"めんどくさいおばさん"だと思う。私も日本語の使われ方についてはいちいち気になってしまうほうだ。「的を得る」と言う人を見るたびに、心の中で「的は"射る"ものだろ!」とツッコミを入れてしまう。最近はテレビでもよく「自分自身」「必要不可欠」などの重複した言葉が使われていて、それも聞くたびに気になる。「食べれる」「痩せれない」などの"ら抜き言葉"は、当たり前に使われ過ぎてもはやあまり気にならなくなってきた。さらには「書けれる」のように謎に"れ足しちゃった言葉"も見かけるから不思議だ。

それから、使い方が間違っているわけではないが気になるのは「〜過ぎる」という表現。誰かがブログで、最近この表現が不必要に多様されていると指摘しているのを見てから、確かに何でもかんでも「〜過ぎる」をつけているなと思うようになった。メディアで多用される「〜過ぎる〇〇」というキャッチコピーを見ると、ちょっと安っぽいというか頭が悪そうというか、なんだかいい感じがしない。

…と、ここまで散々文句をつけたけど、自分にも間違って覚えている言葉や知らない言葉はあると思うし、新しい使われ方として定着していく言葉もあると思う。あんまりピリピリせずに、従来の日本語を大事にしつつ変化も受け入れていきたいと思うのだ。そうでないとどんどん頭が固くなって歳をとっていきそうだから…